前回は、少数派の素晴らしい点についてお伝えした。
今回は、「自分を好きになる方法」について。
これは「少数派」とつながっている。
〈素晴らしい少数派〉でいられると、人は自分を好きになりやすいのだ。

自分が自分らしくいること

自分を好きになるために何が必要か?

(1)自分が自分らしくいること
(2)そして、その自分らしい自分が誰かを幸せにしていること

この2つがセットになっていて、自分がそういう状態だよなと自覚できたなら、きっとあなたは自分を好きになれる。というか、すでに好きでいるはずだ。

これが結論。以上、終わり。
と行きたいが、じつはこれは簡単ではない。

まず、自分が自分らしくあるかどうかを日頃から自覚している人も、自分らしさに十分価値があると自信を持っている人も、とても少ないと私は思っている。
企業向けに自分を生かして新しいビジネスを創りだせるプロデューサーを育成するとき、また、ビジネスパーソン個人向けに自分を生かして起業し継続的にビジネスを回していけるようにするプログラムをやるとき、いつもはじめに、この壁を越えなくてはいけない。
自分の素晴らしいところを自覚して、ある意味ロジカルにも自己肯定できないと、人は自信をもって行動を起こせないのだ。

自分は自分らしい状態なのか?
自分は自分らしいことをしていて、その自分らしさを肯定できるのか?

それを確認するには、あらためて、自分で自分に問いかけて答えを出さなくてはいけない。
自分が自分らしいかどうか? 多くの人は、普段はそんなことは忘れている。
他者から「あなたらしいことをしているね」と言われると、その時に、ああそうなんだな、あるいは、そういえばそうだったよな、と他者から見えている「自分らしさ」を自覚できるだろう。だがそれは、自分らしいといえば自分らしいかもしれないが、すごいこと、価値あることなのだろうか? 何のためにどう活用できるのか? それはよく分からない。
そういう感じではないだろうか。

安易な自己肯定にはブレーキがかかりやすい

好きなことをやっていると自覚できたとしても、「じつは自分はナルシストなのでは? 自分勝手なだけなのではないか? かりにそうだとしたら素直に自分を認めたくない」と思う人もいるだろう。
安易な自己肯定にブレーキをかけようとするのが人間だ。
誰でも、褒めてもらうことは嬉しいだろう。だが、褒めてもらうだけでは信じられないこともある。
褒められてもけっしてつけあがることのないようにしようというスタンスでいる人を私はたくさん知っている。

人は、自分らしいことをしていて、かつ、それが誰かを幸せにしていることに繋がっていることが世間の目線からも客観的に疑いようがないなとわかって、はじめて「ああ、やっぱりこれでいいんだ」と堂々と自分を認められるようになるものなのだ。

自分を好きになるには「試行錯誤の歴史」が必要

だれでも、自分のやりたいことをやりたい気持ちは持っている。
だが、多くの人は、慎重だ。自分の欲求のままに行動して踏み外したくはないと思っている。
自分を肯定して自分に自信を持つまでには、「歴史」が必要だ。
こうかな、ああかな、と仮説を立てて、実際にやってみたら、こうだとわかった・・・
そういう実体験のなかから、確信が生まれてくる。そして、相手によって使い分ける、ということも覚えたりする。それも、自分らしさを生かして誰かを幸せにするために必要な方法だと学習しながらつくっていくその人、その人の「歴史」だ。

つまり、ひとは、自分の感覚に従い、やりたいことを実現しようとするが、やりたいことを実現するためには誰かを喜ばせたり、誰かの困りごとの解決を手伝ったりしながら、その「自分らしさ」が「誰かを幸せにする」ために通用するかどうかを体験的に確認しながら「自分らしさ」を磨いていく。そういうプロセスを経て、「自分らしさ」は明確になり、自分を好きでいられるようになる。

素晴らしき少数派だからこそ誰かを幸せにできる

自分を好きになるために必要なことはシンプルだ。
だが、基本的にこれで大丈夫だ、間違いない、と信じて進めるようになるのは、その人に、試行錯誤というか、フィールドワークして確認していくようなプロセスがあったからだと私は思う。

<人と同じではない。多くの人と違うところのある自分がいる。
少数派の自分ーーーだが少数派の自分だからこそ、人にできない価値提供ができ、誰かを幸せにすることができてきた>
<もっと良い価値提供をするために、私は私を進化させたり、どこかを変えていったりしなくてはいけないかもしれない。だがそれは、私らしさの延長線上にある。だから私は、これからも私を好きでいられる>

そういう感じなのだと思う。

自分は少数派だと意識することはないだろうか?

例えばグループやチームの中で、同じ意見を持つ人が他にいない、あるいは自分とあと一人ぐらいだったり。人から「君は変わっているな、誰もそんなこと考えていないよ」と言われたり。

大多数が同じ方向に進むなか、自分だけが違う方向を見ている。
そんなことを何度も体験している人がいると思う。
なぜ人と同じようになれないのだろう? 足並みを乱すことで、迷惑をかけてしまうのではないか?

それで悩んでいる人もいる。
私の友人にも、自分がいつも人と違う感覚を持つ少数派になりやすいことに悩んで、大勢の場で意見を求められたときにストレスで手が震えるようになった人がいた。

少数派であることは「いけないこと」なのだろうか?
また、自分が少数派であることを意識させられ、やりにくさ、生きづらさを感じるようなとき、いったいどう考え、対処したらよいのだろうか?
具体例を挙げながら考えてみたいと思う。

少数派になってしまったときどうするか

メーカーV社 営業担当南さん(仮名)のケースで考えてみよう。

南さんには、自社の主力製品であるAの売上を伸ばすというミッションがある。しかし、Aという商品は近年売上がジリ貧、頭打ちの状況で、競合にも負け始めている。南さんは営業としてこのままではいけない、何とかしたいと危機感を持っている。上層部からは当たり前のように売上伸長の指示があるが、南さんは、このまま以前と同じ売り方でよいのか、そもそもAでよいのか、何か違うものが必要ではないかと考えるようになった。

そんなとき、担当している商品Aのユーザーから「いま解決したいことがあるのだが、良い方法がないか?」という今まで聞いたことのない悩みを聞かされた。

この悩みは商品Aでは解決できず、違う商品やソリューションを提供する必要がある。だが今のV社には提供できるものがない。そして他社にもない。

かりに、それを新しく創りだせたなら、商品Aの課題を解決することにつながる。多少時間はかかるだろうし、さまざまな人が関わるので体制作りも必要だろう。だが、南さんは何とかできないだろうか、いや、どうしてもやってみたいと考えた。

そこで、上司に提案した。上司は、「とにかく商品Aの売上拡大は絶対で、商品Aを売る営業が1名減れば売上も減りかねない。だから、それはダメだ」と反対されてしまった。周囲からも南さんに賛同する声は出てこない。いや、何人か共感はしてくれるのだが、上司の命令に反発することになるし、代案があるわけでもないので表立って賛同してくれる人はいないということなのだ。
南さんは完全に少数派になってしまった。

こんなときどうするか?

少数派はブレークスルーの起点になれる

お客様に貢献したい、会社を良くするために貢献したいという気持ちは、じつは事業部の誰もが共通に持っている。
会社として、主力商品であるAの売上シェア拡大を目標に掲げると決めたのだから、皆それに従い商品Aの販売をし続けてきた。だが、商品Aが頭打ちになってきた今、一番の目的である会社やお客様への貢献という目的を達成するためには、新しい商品を企画しそれを成功させた方が良いのではないか。そう考えるのは少しもおかしくない。本質的に大事なことをわきに置いて、とにかく商品Aを売ることが目的になっている。
こういうことはよくあることだ。

本質的な目的、実現したい理想の状態、すなわちビジョンを描いて、実現への道筋を示せれば、かならず共感者はでてくる。そして、ビジョンの実現に向かって小さくとも具体的な行動をはじめれば、目に見える成果が生まれ、共感者は増えていく。
そして、お客様がそれを望んでいるなら、それは大きな武器になる。
こういう状態を実現したい、実現すれば誰をどうハッピーな状況に転換できると、ビジョンを語って共感者を増やしていくことは、状況を変えたい少数派にとってとても重要だ。

すでにお客様が予算措置もふくめて実施検討に入ってくれるなら、いまは少数派でも、状況はどんどん有利になる。なぜなら、多数派も、事業部門のトップも、未来を拓く新しいサービスが創造できることを望んでいるからだ。そして、お客様がやりたいと言って予算をとってくれることをつぶせとは言わない。

こうなると、少数派でも、いや、少数派だからこそブレークスルーを起こせる。

少数派が新しい多数派になるとき

私自身もかつてリクルートで営業をしていたときに同じような経験をした。                        上司から、「お前のやってることは営業じゃない」と自身の営業スタイルをさんざん否定された。だが、結局はお客様と一緒に商品を形にし、それを他のお客様も導入してくれるようになった。結果として新しいビジネスがうまれ、事業部門の売上は拡大した。トップセールスになれたし、何より、新しい商品を買ってくれたお客様が組織として成長できた。感謝もされた。

多数派の意見や認識というのは、それまでの歴史的経緯のうえにできあがってきたものだ。
しかし、世の中は変化していき、いつか多数派の考え方は行き詰る。
そして、単純な話、人間というのは変化を嫌う生き物なので、多数派でいることの安心感のなかで、まずい状態が継続してしまうことは多い。

それに気づいて違和感を感じたり、何とかしようとするのはいつも少数派で、だからこそ新しい価値を生み出すことができるのだ。

そして、もう一つ、重要なことがあると私は思っている。
それは、多数派は、はじめは反対派や抵抗勢力に見えるかもしれないが、少数派の目指す世界に共感できるところを潜在的に持っていることがじつは非常に多い、ということだ。
つまり、少数派はいつも少数派のままではない。共感しあって前に進むとき、少数派も多数派も関係なくなる時がやってくる。

少数派には、改革の口火を切るという隠れた役割がある。本来あるべき、良い未来を拓くための新しい多数派をつくりだすのは、少数派なのだ。

少数派にはものすごくたくさんの素晴らしい点があるのだが、今回はその1つをご紹介した。

なぜそれをやりたいのかというWHYを、自分独自の体験をもとに語ることができれば、プレゼンテーションは魅力的なものになる。

実際に体験したからこそ持ちたえた自分固有の動機は、説得力の源泉になるのである。とくに、社会(ひろく社会という場合もあれば、身近な特定の人という場合もある)にたいしてもった何らかの問題意識がベースになっているとき、説得力は増す。

たとえば、こういうことである。
東北地方に、人口が減少をつづける過疎の村がある。
自然は美しく、村の人々の気質も古きよき日本のものを残している。村の若者たちはみな、やる気を持っているが、たいした産業はなく、結局は都会に出ていって戻ってくる人が少ないという現象がつづいている。そこには小規模のひなびた温泉があり、米とリンゴがとれ、地元の人にしか知られていない、おいしい地酒がある。
休暇をとっての一人旅の途中でその村を訪れた都会で働く若者がいた。若者は村の人たちに世話になり、その村の素朴さに感動した。
村は、たしかに僻地にある。いまは全くの無名だ。しかし、このすばらしさをたくさんの人が知ることができればどうなるだろうか。少なくとも、村でつくる地酒は、何らかのプロモーションをした上で、東京の気のきいた小料理屋に出すぐらいのことはできるかもしれない。儲かるかどうかはわからないが、村の知名度を高めるために多少の役割は果たせるだろう。村人たちに自慢のネタを、ひとつ提供するくらいにはなるはずだ。温泉に手を入れれば、観光地としての可能性もでてくるのではないか。都会の子供たちを村に集めて、サバイバル教室をひらくことは、すぐにでも可能だろう。そういう企画があれば、インターネットを使って情報の交流はもちろん、商品のやりとり、人の交流をおこすことが十分できるのではないだろうか。
若者は、そのように考えた。

漠然とITに関する仕事をやりたいと思って通信会社に入り、三年が過ぎていた。IT技術を磨いていきたいとは思っても、この先、何のためにどんな仕事をしたいかという明確な目標があったわけではなかった。だが、こういう村をITをつかって活性化するような仕事ができたら素晴らしいだろうと思った。具体的なイメージも湧いてきた。その思いが、ITを追求する自分の動機として、すっぽりと自分のなかに組み込まれたわけである。
若者は、IT関連の仕事をすること自体が、自分にとって、かならずしも最終的なゴールではないのかも知れないとも思えてきた。
しかし、少なくとも若者は、この時点で、なぜネットワーク技術者になりたいのか、仕事を通してどういう未来を実現したいと思っているのかについて、自分だけがもつ独自の視点と問題意識をしめして語ることができる。
たとえ、仮説を提示しているに過ぎないとしても、こうしたプレゼンテーションが、相手をひきつける説得力をもつことは当然だろう。

何故そのテーマなのか、何故そういうビジョンなのかという理由は、自分の歴史や、歴史のなかで形成されたり確認された自分の個性と結びつけて整理してはじめて、自分自身も相手も、腑に落ちるように納得できるものなのである。

「新しい何かを創りだす」行為であるプロデュースは、問題解決の観点から、非常に重要な意味を持っている。
問題解決の考え方として、もっとも基本的でポピュラーなものは、「発生した問題には、必ず原因があり、その原因を突き止めて合理的対策を講じれば、必ず解決できる」というものだ。
これは、「合理的問題解決」と呼ばれる考え方で、ビジネスの一線では、この考え方が広く普及している。
解決方法を論理的に説明しやすく、会議の場で多くの人の合意をとるときにもスムーズにできる考え方である。
しかし、この方法では解決がつかない問題がある。
原因を突き止めても、合理的対策がとれない問題、あるいは原因自体がわからない問題もある。
じつは、プロデュースは何かを創りだすだけではない。こうした問題を解決することができるのだ。

二種類ある問題解決の発想

たとえば、土日が休みの工場で、月曜日の午前中につくられる製品に多くの不良品が発生するようになったとしよう。この問題には原因があるはずだ。
なぜ月曜の午前中なのか、という観点から想像できる原因はいくつか出てくる。

(仮説1)機械が再び動き出して調子が出るまでに時間がかかる状態になっている。
→機械のどこかにそういう問題があるかは、さまざまな可能性がありうる

(仮説2)使用する水が、配管が古くなってサビが出るなど月曜の朝は汚くなっている。
→不純物が多く混ざった水が、不良品を生み出しているかもしれない

(仮説3)月曜の午前中に相当な疲労を抱えたまま作業にあたっている人間がいる。
→土日、特に日曜日の夜に何らかの原因により睡眠時間が極端に短くなってミスをしやすくなっている現場社員がいるかもしれない

(仮説4)班長に昇格した人間が朝の班長会議で10分間自分の持ち場を離れている間に何らかの問題が発生するようになった。
→班長に昇格した人間のなかに、現場での機械調整を毎日職人技で行ってきた者がいて、本来持ち場を離れられないが、班長会議に出席しないわけにはいかないと決められているかもしれない

この問題は、機械や設備の問題か、人間的な問題かは別として、原因がはっきりすれば対策を立てることができ、あとはそれを実行すればいい、とロジカルに考えられる。原因さえわかれば、原因をつぶすことはそう難しくないという発想をすることができる。
これが、「合理的問題解決」の考え方である。

しかし、次のような場合はどうだろうか。

(問題A)生産拠点が中国に移り、工場が撤退した街は沈滞化している
(問題B)発泡酒やその他雑酒(第3のビール)の浸透でビールの売上がダウンしている
(問題C)C社で入社三年めまでの若手社員の35%以上が退職している
(問題D)長年確執を抱えてきた二つの集団が抗争を繰り返している
(問題E)日本の少子化が進んでいる
(問題F)私はXさんに嫌われている

これらの問題は、いずれも原因はある程度解明できるだろう。関連する情報を徹底的に集め、それを分析し、問題の構想を明らかにすることもできる。
しかし、原因が究明され問題の構造が整理されても、それだけでは絶対に解決できない。
原因をつぶすという発想で解決が進まないからである。

Aの場合、中国に移った工場をふたたび街に戻すためには、生活できないような安い人件費に押さえなくてはならないかもしれない。

Bの場合、ビールの売上をあげるために発泡酒の生産を抑制すればいいかもしれないが、会社全体の立場に立てば、トータルな売上・利益を失う可能性が高い。

Cの場合は、35%という退職率を減らすことは可能だが、世の中のトレンドを考えながら、どこまで若手社員に快適な状況をつくるべきか、組織全体をどう変えていくべきか、今のC社の能力のなかで、業務に支障が出ない範囲でどこまで対応可能なのか、といったことを考えなくてはならない。つまり、すぐに解決すべきで、しかも解決可能な部分と、企業のビジョンや戦略があってはじめて問題意識と解決策が出てくるという部分がある。

Dの場合、歴史的な経緯が背景にあり、融和をもたらすためには、きっかけとなったことを総括しなくてはいけないだろう。しかし、それを双方が認めない(認めたくない)場合もある。
第三者の仲介で両者の間にある障壁のいくつかは取り払われても、人間同士の確執が双方の心のなかから相当減らない限り、新しい抗争が生まれてしまう可能性は常にある。

Eの場合、原因をつぶせば少子化は解消されるはずである。しかし、その原因はすぐにはつぶせないものばかりである。たとえば、結婚せずに子供を産むことは望ましくないという価値観が強い日本のカルチャーを変えるには時間も労力も相当にかかるだろう。ビジネス社会には、できる社員には男女を問わず、できるだけ休まず多くの時間を会社のために使ってもらわないと勝ち残れないという現実が、まだまだあるといわざるをえない。都会の住宅は狭いという現実。子供がいない人生のほうが、好きなことをやれ、気楽で豊かだと多くの人が考えるようになっている現実。これらを変えるためには、社会の価値観と制度、生活スタイルを大きく変えるような大がかりな施策が必要だ。

Fの場合は、嫌われている理由が解明できるかどうかもわからない。Xさんが、私を嫌いな理由を認識していて、きちんとわかるように話してくれるかどうかはわからないのである。仮に、理由がわかっても、それが私の生まれついた性格や身体的特徴や、これまでのキャリアや家柄に起因するものなら、「原因」をつぶすことは難しい。あるいは、Xさんの側に、昔ひどいいじめを受けた相手に私が似ているという事情があったとしても、その事実は消しようがない。

これらの問題は、いずれも原因をつぶすという発想では解決できない。
何か、まったく新しいアイディアが必要なのである。

アイディアを実行することによって、結果的に問題が解決されるという考え方に立って進めないといけないのである。
そのアイディアは、集団のディスカッションによって出てくる場合もある。
しかし、たった一人の自由な発想から生まれることも多い。
そして、たった一人の発想から出てきたアイディアが、もっともいい解決をもたらす場合もありうる。
だが、合議によって意思決定される場合、個人のユニークさから発送されたアイディアは採用されにくい。
企業では、なぜそのアイディアが正しいかを証明し、多数が納得することが合意形成のルールになっていることが多いが、「合理的な問題解決」の考え方では解決できない問題を解決する大胆なアイディアには、なぜそのアイディアが有効なのかを合理的には説明しきれない要素が、どうしても残る。
おもしろいし、悪いアイディアではないと周囲が思っても、実際にやってみないとわからない要素がつきまとえば、ルール(暗黙の慣習、文化も含む)上、ゴーのサインが出せないのである。
したがって、そういうアイディアを実現させるためには、強力なリーダーが、責任を持ってアイディアを採用して実行を推進する体制があるか、自分自身がそういうリーダーになるか、あるいは、覚悟を決めてやってしまうしかない、ということになる。
プロデュースの決定には、多人数による合議が向いているとはいえないのである。

また、工場で不良品が増えるとか、サービスに対するクレームが多発して競合にシェアを奪われるといった問題と違い、これらの問題には、問題自体にあいまいな要素が含まれている。
見方、考え方によっては、「それは問題ではないんじゃないか」というとらえ方もできる。「しかたがないじゃないか」「それでもよくやっているじゃないか」「そういう時代なんだ」「このトレンドのなかで最善の方法をとることが大事だろう」などということで納得し、このまま現状を受け入れていくよりしかたがないという考え方も成り立たないとはいえないのである。

しかしいっぽう、「それではだめだ」「いやだ」「こうしたい」「そうすべきなのだ」と考え、だから「そこには大きな問題がある」ととらえることも、もちろんできる。

したがって、こういう問題に対処する際はまず、問題を提起しなくてはいけない。
何が問題なのか。それは、なぜ問題なのか。なぜ、このままではいけないのか。
どういう状況を目指したいのか。それはなぜなのか。
こうしたことを示さなくてはいけない。
そして、まず「やってみよう」と考えるかどうか。
「一度きりの人生、ずっとやってみたかったことをいまこそやってみよ」といってくれる強いリーダーがいるかどうか。
どんなことをしてでも自分自身でやり遂げてしまうパワーを持った人物がいるかどうか。
彼、あるいは彼女に賛同して集まり、支援してともに闘ってくれる人々が現れるかどうか。
アイディアを実現できる環境を創造していけるかどうか。
そうしたことが、これらの問題を解決する鍵になる。
これは、まさにプロデュースなのである。

締切が迫っているのに完成のメドが立たないことはある。
もう間に合わないんじゃないか。遅れたら、大変なことになる。
こういう危機感をもたらす「締切」は大きなストレスの元になる。

だが一方、締切があるから考えついたアイディア、せっぱ詰まって極限状態になるから生み出される工夫というのは、非常に多い。
せっぱ詰まると、逆にやってやろうという意欲が湧いてくることもある。
どうせ無理だと思われる課題にチャレンジしてやってのけてしまうことほど、面白く気持ちがいいことはない。
クライアントから、「無理だとは思いますが、これが実現できたらほんとうに素晴らしいことになるでしょうね。なんとか、やってもらえませんか」
と要求されたからこそ、やる気になって実現した仕事は、私の場合、とても多い。
無理だと断っても罪はなく、やってみましょうと応えれば自分の首を自分で絞めることになるのはわかっている。しかし、そういう危機的状況を、あえてつくりだすことで、せっぱ詰まった感覚を逆に活用して誕生したノウハウはいくつもある。

自分の中にある「やりたいこと」「できること」が、「人から要求されること」とシンクロして化学反応を起こす。さらに、せっぱ詰まると、体の中にある溶鉱炉の熱が高まり、自分の怠惰な部分を、そのときばかりはいともたやすく溶かしてしまう。
身体もハートもキツく、胃がキリキリするような状況になる。しかし、なんとかしてできあがっていくときは、新しい世界を見ることができた、生きていてよかったという感情が湧いてくる。
一瞬だが「俺って天才じゃないか」と思ったりもする。もっとも一晩寝ると多少クールになり、天才ではなかったと気づくのだが。
しかし、それでも、自分も捨てたものではないと思える。
こうして、人は自信をつけていくのだろう。

自分一人でやる場合だけではない。
同じ状況に置かれた仲間たちと一緒に、せっぱ詰まった状況を打開して、何かを形にしたという体験は、みんなに自信をもたらす。
結局は、闘って何かを成し遂げるたび、人間は強くなっていけるということだ。

年がら年中せっぱ詰まっていては、やってられない。
しかし、たまに、せっぱ詰まるときが訪れることは、まことにありがたいことでもある。