人は誰も、「これはやるべきことだし、やりたいし、実現すれば素晴らしいことが起きる」と確信できれば、限りないエネルギーが湧いてくる。

その思いが、やってやろうというモチベーションを維持し、いろいろな工夫を生みだし、協力者を何としても捜しだそうとする意欲の源泉になる。

「なんとしてもこの夢を実現したい」という意欲が失われたとき、プロデュースは非常に挫折しやすい。

つまり、感覚的にも論理的にも、自分のなかでプロデュースを正当化し、自分自身の「やる気」と「ワクワク感」をつくりだす思考が、プロデュースする人間にはどうしても必要になる。

自分自身が「やる気」と「ワクワク感」を持ち、モチベーションを維持できなければ、結局、プロデュースに協力してくれる人々の「やる気」と「ワクワク感」をつくりだし、ビジョン実現に向けてモチベーションを維持していくことはできない。

プロデュースは、まず、自分(発案者自身)がやる意味を強く感じることでなくてはいけない。そして、自分が好きなこと、好きなやり方を最大限に取り入れて進めていこうとする姿勢が非常に重要になる。

モチベーションを維持し、高めるために役立つなら、自分自身が必要だと思う新しい体験をしたり、会うべき人と会ったり、会うべきでない人と会わないようにしたり、自分を癒したり、好みの道具をそろえたり、気分が高まる服を着たり、やる気になれる場所を活動拠点にしたりすることも、できる限りすべきなのである。

一見わがままで独善的に思えるかもしれないが、このスタンスを否定するとプロデュースはうまくいかない。

ただし、プロデュースを進めるチームができたなら、発案者はチームとしてのやりやすさを尊重しなくてはいけない。
最終的にはビジョンの実現がゴールなのである。その目標に向かって、成果が生まれるチーム運営をしていくことで、プロデュースはカタチになっていくのだ。

エンプロイアビリティには、三つの観点がある。

今の会社に雇われつづけられる

一つめは、所属している組織に雇われつづけるためのエンプロイアビリティという観点だ。
これは、どんな時代でも、ビジネスパーソンにとって基本的な観点である。
ひとつの組織のなかで、長期にわたって、いい仕事をしつづけていくことができるなら、やはりそれは幸福なことだと言えるだろう。
アクティブに考えれば、自分がいる会社の事業に貢献し、会社をもっといい会社にしていくために仕事をするには、雇われつづけなくてはならない。
経営サイドから見ても、意欲も能力も高い社員を手放したくはない。優秀な社員は他社に奪われることなく自社で抱えて、会社のために活躍してほしいのである。
パッシブな捉え方もできる。
規則を守り、人間関係を良好に保ち、仕事は人並みにやる。処遇には文句を言わない。特別目立つことはなくとも、会社にとって都合のいい人材でいつづけるということが、雇われつづけるためのエンプロイアビリティに繋がるという考え方だ。
実際、そのような人材に、ほんとうになることができれば、半数以上の社員がリストラされるようなことにでもならないかぎり、ひとつの会社に居つづけることはできるかもしれない。
しかし、会社自体が永久に存続していく保証はない。会社がつぶれた場合、身につけている能力や価値観がひとつの会社でしか通用しないものであれば、どこからも雇ってもらえないということになる。
そこで、ひとつの会社に雇われつづけると同時に、いざというときに、できる限りいい条件で転職できるような準備が必要になってきた。
いっぽう、ダウンサイジングを指向する企業の側でも、いざという時に転職できるだけの覚悟と能力を持った社員を抱えておきたいというニーズが急速に高まった。
経営者からみれば、それが、機敏で思い切った構造改革を可能にし、しかも社員の早期退職をめぐるトラブルを少なくするための極めて有効な方法だからである。
社員の側からみれば、他でもやっていけるだけの能力と覚悟があるほど、今いる会社から継続的に雇われる可能性が高まったともいえる。
まったく逆説的なことだが、会社を辞めてもやっていける可能性のある人ほど会社にいてくれて結構、ということになってきたのだ。

良い条件で転職ができる

エンプロイアビリティの二つ目の観点は、好条件での転職を可能にすることだ。
プロ志向のビジネスパーソンたちはもともと、この観点を強くもって仕事をしてきた。
個人の力が事業を左右するような業界では、高い報酬を払っても価値ある人材を引き抜くことができれば、他社に対して優位に立つことができる。
野球でもサッカーでも、プロスポーツの世界では、それは昔からの常識だった。
プロスポーツでなくとも、実績をあげた外資系企業のトップには「引き抜き」のオファーなど、専門性の高い仕事をするプロフェッショナルにたいするヘッドハンティングは恒常的に行われてきた。
そうした職種の人々は、自分の能力、キャリアにたいして、どれだけの処遇(年収・ポジションなど)が与えられるのか、ということを常に意識してきた。
いい条件で転職すること事態がプロらしいキャリアになり、それが、後でさらにいい条件で転職できることにつながるということも少なくないからである。
彼らにとってエンプロイアビリティは、業界内の人材流通市場における「自分の市場価値」に他ならない。
そこにあるのは、アクティブな意味で、エンプロイアビリティを日ごろから磨いていけば、かならず好条件で転職することができ、転職によってさらにエンプロイアビリティを高め、プロフェッショナルとして堂々としたキャリアをつくることができるという価値観である。
人材の流動性がおきやすい業種では、パッシブに考えても、日ごろから、少しでも専門的な能力をたかめて、世間並み以上の条件で、いつでも、どこか自分を雇ってくれるところがあるという状況にしておくことが、もっともリスクを少なくする働き方だという発想になる。
終身雇用が実質的に崩れたいま、この観点でエンプロイアビリティをとらえる傾向は、あらゆる業界・業種のビジネスパーソンのあいだで強まっていくだろう。
 

やりたい仕事をやりつづけられる

雇われつづけるためのエンプロイアビリティ。好条件で転職するためのエンプロイアビリティ。この二つの観点のほかに、もうひとつ、エンプロイアビリティを考えるための重要な観点がある。
それは、やりたい仕事をやりつづけるためのエンプロイアビリティという、三つ目の観点だ。
ひとつの組織に雇われつづけてもいい。転職を繰り返してもいい。独立自営となってもいい。
とにかく自分がやりたい仕事を見つけ、それを長期にわたって磨いていくことができれば、専門能力も高まるし、必然的に実績もともなってくる。
実績をあげれば、組織のなかでも認められ、優遇される。外部からヘッドハンティングの声がかかる可能性も高まる。
やりたい仕事を追求していくことができる人ほど、結果的にエンプロイアビリティは高くなる。
自分の技術や自分のつくったもの、あるいは自分のサービスを買ってくれる相手がいさえすれば、特定の組織に雇われる必要はかならずしもない。
自分で自分を雇うという選択肢もうまれる。
ところが、やりたい仕事を追求していくためにはエンプロイアビリティが必要なのである。
やりたい仕事を確立し、成果をあげ、キャリアを創造していくためには、常にやりたい仕事をやる場*がなくてはいけない。あるいは、やっている仕事を、「やりたい仕事」に進化させていくための場*がなくてはいけない。
そのために、やりたい仕事をやらせてくれる相手が必要になるからである。

*場:たとえばコンサルタントになるには、経営学や問題解決手法を学ぶために学校にいくことはプラスだが、それ以上に、実際にコンサルティングを自分でやってみて成果をあげ、実績をつくることが重要だ。そのためにはコンサルティングファームで修業させてもらいながら実践できる「場」を得ることができるかどうか、あるいは自分の力で、なんとかクライアントを獲得できるかどうかが最大のポイントになる。

自分自身について、魅力的にプレゼンするにはどうしたらいいか。
それには、三つの要素が必要だ。
「コンセプト」「ストーリー」「データ」である。
コンセプトはプレゼンの柱になる。
どんなプレゼンも、人を引きつけるコンセプトがないと響かない。
魅力的なコンセプトがあればストーリーも一貫したものになる。プレゼンをロジカルなものにするためにもコンセプトは必要である。
「どんなことをやりたいんですか」という質問にこたえるかたちで、自分のプレゼンがはじまることは多い。
たとえば、
「1ミリくらいに近づいて接写できる手軽なカメラをつくりたいんです」
というエンジニアがいたとしよう。
「おもしろそうだけど、何故そんなものをつくりたいの?」と理由を聞かれるだろう。
そのときに、
「どんなものでも接近してみると、まったく違う世界が見えてくるんです。人の肌も肌には見えませんし、花も違ったものに見えます。ちいさな傷も生々しく迫ってきます。傷や汚れですら美しく見えます。一度こういう体験をすると、モノを大事にしよう、命を大事にしようという気になってきます。あせらず足もとを見つめて、やるべきことは目の前にあるという気にもなってきます。気持ちが不思議に落ち着いてきます。接写の世界を一般の人たちの間にひろげられたら、きっと楽しみも増えるでしょうし、世の中、平和になるんじゃないかとまじめに思っていまして」
と答えたらどうだろうか。
そこには、何をやりたいかというロマンと同時に、「接写がひらく新世界」というコンセプトがある。
コンセプトに共感を得られれば、自分のプレゼンは相手の意識を自分にフォーカスさせることができる。もっと聞きたい、自分からも話したいという気持ちをおこさせる。それが人間関係のもとになる。
エンジニアは、さらに質問を受けるだろう。
なぜそういうことを考えるようになったのか。どういう人生をこれまで歩んできたのか。1ミリの接写を実現する安価なカメラの技術的ポイントは何か。どうすれば売れると考えるのか。どうすれば、これが実現できるのか。
こういうことを、相手は聞きたくなる。
いや、一緒に接写が一般的になることが社会にもたらす可能性や実現のプロセスについて考えたくなるかもしれない。
コンセプトは、相手とのシナジーを生みだすもとになるものでもある。
こういうコンセプトがあれば、エンジニアが語る自分のストーリーは自然に受け入れられていく。

ストーリーには、過去の実体験に基づくストーリー、「こういう歴史があっていまのこういう自分がある」という過去から現在にいたるストーリー、そして、未来への仮説的ストーリーがある。
具体的な出来事、出来事と自分との関係、自分の思い、未来への夢は、ひとつの流れをもった物語になる。そこにはさまざまな人物が登場する。
人はだれでも物語好きだ。自分のストーリーを語ることは、聴き手が、自分のストーリーを振り返って考える効果もある。ストーリーは相手を刺激し、触発し、相手のストーリーを引き出すきっかけとなる。
そのエンジニアは、子供の頃、父親がそのまた父親からもらったというお下がりの机で勉強した。大きい机だったが、古い机は不満だった。だが、机のいたるところにある無数の傷を見ていると、傷にもいろいろあるということがおもしろくなってきた。そのうち、歴史を感じるようになってきた。引き出しの中に入っていたルーペで机の表面を観察することが、ものすごくおもしろいことだと思うようになった。
こういうストーリーが語られると、聴き手の側も古いモノの良さについて自分の子供の頃の体験を思い出しながら話したくなるかもしれない。

データは、ストーリーのリアリティをつくりだす。
話に対して相手に信頼感を持ってもらうのは、データの裏付けがあるからである。
たとえば、机の傷も、長さが何ミリで幅が何ミリ、深さが何ミリの範囲に収まるものが87パーセントで、傷の種類は五つのパターンに分けられ、大きな傷は何でできたのか父親に聞くと、傷をとおして子供の頃の父親の情景が浮かんできておもしろかったなどといわれれば、ストーリーのイメージはさらに湧いてくる。
データは、ストーリーをおもしろく刺激的にする。話の核心が細部にあることも多い。自分の専門能力を示す実績もデータのひとつになる。
プロフェッショナルほど、相手に示すことのできるデータはしっかりしてくる。


自分のビジョン、ポリシー、自分が追いかけているテーマ、自分の歴史、成功したこと、失敗したこと、そこから得たこと、自分が何をやりたいかなどを魅力的に話すために、コンセプト、ストーリー、データの三つの要素が役割を果たす。

私たちはみな、子供のころから、計画をきちんとたててからやりなさい、ということをいわれてきた。

しかし、中長期的に何かをはじめるときは、計画よりも、ビジョンを大事にしたほうが元気がでる。
ビジョンとは、「現状からは飛躍しているが、実現を信じることができる未来像を魅力的に表現したもの」である。

計画はたてたその日から狂いだすことがありうる。しかし、自分が信じられるビジョンは狂うことはない。なぜなら、ビジョンはゴールのイメージであり、どういうやり方で、そこに到達してもかまわないからだ。
ビジョンのほうが「長く持続する推進エンジン」になる。
プロフェッショナルほど、計画より成果を大事にする。これは、プロは成果をあげてなんぼ、という世界で生きているからでもある。

しかし、それだけではない。

時間とエネルギーを使ってたてた計画が狂っていくのを日々感じることは元気をなくす要因になる。
しかも、計画にはない「もっといいアイディア」を取り入れること自体が計画を狂わす原因になりかねないジレンマが、計画というものにはある。
計画にとらわれてしまい、本末転倒となる危険は、いつもあるのである。

ならばそれより、毎日、どれだけビジョンに近づいたか、あるいは、今日は何をどれだけやったのかという現実を振り返って、また明日へ向かうという態度をとったほうが、元気が出る。やったという実感が湧く。
継続する力があり、多少アバウトでも、自分の感覚で自分はどのくらいの仕事量をこなすことが可能かを経験的にわかっているなら、こまかい計画に時間を使うことはナンセンスという場合も多いのである。

大人数で何かを進めていくとき、計画をたてて、それを共有し、進行を管理することには大きな意味がある。いや、そうしないとうまく進まない。
しかし、当初たてた計画の進み具合をこまかく管理していくより、むしろ、「今日はこれだけやった」という確かな成果を長期にわたって実感し続けていくほうが、人は、楽しく元気にすごいことを成し遂げることができる。
継続的に成果を出し続けていかなくてはいけないプロフェッショナルは、そのことを経験的に知っているのである。

上司と部下、先輩と後輩、営業と開発と製造担当者。役所と政治家と市民。妻と夫。いずれの間も強固な信頼関係のあるところには、コミュニケーションの不安は起きにくい。

しかし、いま社会では不安が広がっている。

相手が何を考えているか。自分が何を考えているのかを相手は知っているのか。相手は自分をどう思っているか。
それがわからなくなっていることが多い。
コミュニケーションの不安の背景には、双方が持っている情報の違い、使う言葉の違い、体験の違い、環境の違い、何が動機づけになるかの違いが隠されている。
これらは言い出したらきりがない。すべての人が違うのである。

しかし、それを乗り越えて、信頼を築く方法がある。
だれでも、相手に「価値提供」することはできる。仕事そのものか、いい情報か、アドバイスか、楽しい時間か、安心か、お金か、癒しか、うれしい言葉か、それは人によって異なるが、何か提供できる価値が、きっとある。
それが相手の満足につながれば、相手からも価値提供があるだろう。
ただその前に、感謝がかえってくるはずだ。仮に具体的な「ありがとう」という言葉になっていなかったとしても、「あなたのことはよくわかった、なかなかいいじゃないですか」という眼差しかサインがあるだろう。

こういう価値交換のキャッチボールは、繰り返されることが多い。そして、そのサイクルが回り続ける相手同士が信頼関係を深める。
それが回らない相手との信頼関係は結べない。
すべての人と、信頼関係を結ぶ必要はない。しかし、信頼関係をちゃんと作りたい相手なら、相手の満足につながる相手の望みを知り、自分の提供できるものと結びつけることだ。

必ず見返りを当てにする必要はない。
なぜなら、本当に相手に満足を提供できたなら、感謝しない相手はいない。
見返りを当てにしないという姿勢は、相手の満足感を高める。
だれでも、相手に押しつけられずに自分の意志で満足したいし、自分の意志で感謝したいのである。