上司と部下、先輩と後輩、営業と開発と製造担当者。役所と政治家と市民。妻と夫。いずれの間も強固な信頼関係のあるところには、コミュニケーションの不安は起きにくい。

しかし、いま社会では不安が広がっている。

相手が何を考えているか。自分が何を考えているのかを相手は知っているのか。相手は自分をどう思っているか。
それがわからなくなっていることが多い。
コミュニケーションの不安の背景には、双方が持っている情報の違い、使う言葉の違い、体験の違い、環境の違い、何が動機づけになるかの違いが隠されている。
これらは言い出したらきりがない。すべての人が違うのである。

しかし、それを乗り越えて、信頼を築く方法がある。
だれでも、相手に「価値提供」することはできる。仕事そのものか、いい情報か、アドバイスか、楽しい時間か、安心か、お金か、癒しか、うれしい言葉か、それは人によって異なるが、何か提供できる価値が、きっとある。
それが相手の満足につながれば、相手からも価値提供があるだろう。
ただその前に、感謝がかえってくるはずだ。仮に具体的な「ありがとう」という言葉になっていなかったとしても、「あなたのことはよくわかった、なかなかいいじゃないですか」という眼差しかサインがあるだろう。

こういう価値交換のキャッチボールは、繰り返されることが多い。そして、そのサイクルが回り続ける相手同士が信頼関係を深める。
それが回らない相手との信頼関係は結べない。
すべての人と、信頼関係を結ぶ必要はない。しかし、信頼関係をちゃんと作りたい相手なら、相手の満足につながる相手の望みを知り、自分の提供できるものと結びつけることだ。

必ず見返りを当てにする必要はない。
なぜなら、本当に相手に満足を提供できたなら、感謝しない相手はいない。
見返りを当てにしないという姿勢は、相手の満足感を高める。
だれでも、相手に押しつけられずに自分の意志で満足したいし、自分の意志で感謝したいのである。

世の中には、「最低限、人の迷惑にならないようにしなさい」という教えがある。
これはきわめて、基本的なモラルである。
親を大切に、家族を大切に、お世話になった人に義理を欠かさないように、というモラルもある。そして、決められた社会のルール、人と約束したことを守る人がまともな人だ、というモラルもある。
効率が良くなった組織や社会では、できあがったシステムを、お互いに乱さないようにすることがルールとなっていく。
また、秩序を維持するという観点から、組織や社会のカルチャーを理解し、カルチャーに長年なじんできた人の教えに従う者が理想的な組織や社会の一員だという価値観も、当然生まれる。
みんながルールに従わなくなれば、大変な混乱が起きるのは、誰でもわかる。
しかし、できあがったシステム、カルチャーは、常に望ましいものとは限らない。
システム、カルチャーが、何かを阻害していると気づく人は必ずたくさんいる。しかし、既存のものを否定して、何か新しいことを起こそうとする人は、必ずモラルの壁にぶちあたるのである。
そこで、おかしいと思いながら自分を押さえていくことが、程度の差こそあれ、誰にでも起きる。「おかしいから変えましょう」と提言して、つぶされてしまう体験も、かなり多くの人が持っているだろう。
つぶされる理由が自分自身のほうにある場合もあるだろう。
しかし、自分からあきらめたか、働きかけてみたが否定されて挫折したかは別として、「絶対におかしいから変えるべきだ」とか、「これをやったほうが絶対に会社や、お客さま、社会にとっていいはずだ」と思ったことが、うまくいかないことが何度か繰り返されると、人はだんだん考えようとしなくなる。
現実には、親の意向に背いたほうが、結果的には親を喜ばせることができるようになることもある。上司の意向に従わないほうが、会社を救うことになる場合もある。
しかし、指示命令に従わず、約束を破れば、モラルに反し、また誰かを悲しませる結果になる。それは罪だという思いが、「おかしいから変えるべきだ」という考えをストップさせてしまうということは誰にでも起きうる。
こうして、人は、「囚われの思考」におちいる。
実際は、仮に、一時的にはモラルに反する行動をとったとしても、結局は周囲の人々を救い、明るく元気に幸福にできる場合でも、「囚われの思考」はそれを許さないのである。

プロデュースは、こうした「囚われの思考」からの脱却を可能にする。
モラルに、ただ背くのではない。約束をただ反故にするのではない。
魅力あるビジョンを描いて、そこに至る道を示し、なぜそうすべきなのか、そうしないことによってどうなるのか、ビジョンが実現すれば、どんなことが起きるのか、これらを周囲にわかりやすく、戦略的に手順を踏んで説明し、プロデュースに対する支援態勢をつくっていくことで、世界は大きく変わっていく。
ときには、リスクを冒して、事実を先行させてしまうことが最善だという場合もないとはいえない。方法は、さまざまありうる。
プロデュースによって成果が生まれるというイメージを信じられるほど、人は「囚われの思考」から脱却でき、自由に発想できるようになる。
しかし、同時に、自分自身を信じられるか、自分がいいと思ってやったことの責任をとる覚悟ができるかということも考えなくてはいけない。
自由に発想できるだけでなく、自立し、自信を持ってことにあたれるだけの自分が必要になる。
表現力、説得力だけではない。自分に対する信頼感がどれだけあるかも問われる。
プロデュースの過程で、信頼感が想像されていくことは当然ありうるが、それまでの自分の信頼感につながる人脈や影響力、実績の「ストック」も、スタート時には大きくものをいう。
多くの人を動かし、多大な予算を投入してはじめるべきプロデュースになるほど、それが必要になる。
そういうことはあるものの、自分にできるプロデュースは必ず誰にもある。
一人でできない苦手領域は、それができる相手と組めばいい。自分が大きなプロデュースの中心的役割を負えない場合は、プロデューサー自体を連れてくればいい。
プロデュースは、いつでも可能なのである。
それがわかった瞬間に、「囚われの思考」から、人は逃れることができる。

不安は、正体がつかみきれないときほど膨らんでいく。長く引きずる。

人間だれでも、自分に都合の悪いこと、恐ろしいことは考えたくない。そういう心理が働くから、無意識のうちに問題をあいまいにして解決を保留にする。

そうして結局、いつまでも不安をダラダラと抱え続けてしまう。

逆に自分の何がどのように不安なのか、不安に思う必要があるのかどうかを把握すれば、それだけで不安は減る。

不安の正体が明確になって、これは何かしなくてはまずいと認識されれば、それは「危機感」になる。

危機感は不安と違う。危機感をもてば、行動を起こそうという意欲が湧く。さらに情報を集めて、行動計画をたてようとする。やるべきことが明確になる。だからスタートが切れるのだ。

問題は鍵となる不安は何なのかということだ。様々な不安の中から、それを特定して意識する。その不安に、思いきり光を当てて自分で正体を見極められれば、次にどうすればいいのかの対策も講じられる。

不安を書き出して、分類整理して、重点づけしてみることは悪いことではない。だが、あらゆる不安を書き出してじっくり考えようとすると、気持ちが重く、不安が高まる場合もある。なぜなら、がんばってほじくり返せば、誰だって不安はどんどんでてくる。それが、不安というものだ。

大事なのは、ごく少数の鍵となる不安にフォーカスして、それを潰すべく、クリエイティブに頭を働かせることである。

不安には、しばらく保留にしておいても大丈夫な不安もある。それがわかった瞬間、不安は、また少し減る。

こうして、自分が何をやらなければいけないかが見えてくる。やる気が出てくる。動く気になる。不安の解決策を考えながら、夢が膨らんでくることもある。タフな人への第一歩が踏み出せる。

何かを変えようという場合でも、何かを創造しようという場合でも、プロデュースは、プレゼンの際に、「誰もが納得できる方法」を示しきれないものだ。
過去の事例や他社での成功を示せれば、相手を納得させやすい。
しかし、新しいことを仕掛ける場合には、示そうにも、ぴったり合った事例を示せないケースは多い。
したがって、会議の参加者のなかには、失敗した場合の混乱やコスト面のリスクといったマイナス要素しかイメージできない人が出てくる。
だから、必ず多くの関係者が出席する会議で合意をとって決定するというシステムをとっていた場合、強力なリーダーシップを発揮して反対意見を抑えて押し通せる人がいないと、プロデュースは、反対多数によって否決されるか、保留にされる可能性が高くなる。
プロデュースは、活動がスタートして、目指すビジョンが、しだいに多くの人に伝わり、また、途中で小さくとも成果が生まれていく過程があって、賛同者が広がっていくという特性がある。構想を説明されても、相手にとっては、当初は、よくわからない部分が、必ずあると思ったほうがいい。
したがって、当初は賛同者が少数でも、具体的に成果が出たときに賛同が広がればいい、と考えてスタートしてみようというマインドがプロデュースには求められるのである。
プロデュースには、多数決によって実施を決定するというスタイルは、向いているとはいえない。
新しいものを創りだそうとするとき、何かを変えようとするとき、立場が異なる反対者がいるのは自然なことであり、全会一致はおかしいともいえる。
逆に、賛成者、理解者が少ないほど、新奇性、インパクトの大きいものが生まれる可能性もある。
プロデュースは、賛成者が少しでもいれば、当初は十分だと考えていい。
もちろん、状況によっては、きちんと会議でプレゼンして合意を得ることは可能だし、そうできる場合はそうすればいい。
しかし、賛同者が少ない状況でプロデュースを計画するときは、多数決でゴーサインを決定するような会議には諮らずにスタートできる方法を考えるべきなのである。
できる限り目立たぬように静かにスタートし、多くの人が気がついたときには目にみえる成果が出ている状態をつくり、味方を増やしてから大きな会議の場にデビューする。
こういう考え方で成功したプロデュースは非常に多い。
プロデュースは、スタート時の妨害や反対をかわすことが重要だ。
立ち上がりの際に反対者と闘ってエネルギーを消耗してしまうことは、何としても回避したい。相手が強大な権力を持っていれば、芽が出る前に、いとも簡単につぶされてしまう可能性がある。
成果をカタチにするためにも、ムダな闘いはできる限り避け、プロデュースの影響力が増し、共感者、支援者、応援者が増えていく方法を考えたほうがいい。
そして、反対者とどうしても闘わざるをえないときがきたときは、しっかり闘って勝てる戦略を立てていく。
こうして、ビジョン実現に向かって、通常のルールや手続きではうまくスタートできない場合でも、行動開始できる状況をつくって、まずはじめようと考えるのがプロデュースに必要な考え方だ。

「昔の夢は諦めちゃったからなぁ」という人は多いだろう。

しかし、いまやっていることが、昔の夢と違っているとしても、過去と現在でつながっている部分はだれにでもある。

キャリアビジョンを描くワークプログラムをやってみても、ほとんどすべての人が、客観的に納得できる「いま自分がやりたいと思っていることにつながる自分の原点」を自分の歴史の中に探すことができる。

たとえば、子どもの頃、サンダーバードが好きで、テレビを夢中になってみて、プラモデルをすべて買い、将来はメカに詳しいエンジニアになって地球を救おうと夢見ていた元少年がいる。

彼はいま、保険会社に勤めている。保険会社と、サンダーバード。全然つながっていないじゃないかというと、これがそうではない。

彼は、パソコンにやたら詳しい。いつも自分の分身のごとくもち歩き、通勤電車の行き帰りも、必ず座席に座ってパソコンを操作している彼の周囲はまるでコックピットのような雰囲気が漂っている。ビデオ編集にも詳しい。

もともと創造的な頭と感性をもっているが、口でしゃべって押しきるのではなく、必ずパソコンで何かをつくりあげ、シートやスライド、動画映像にして示したがる。

業務上の情報コミュニケーションシステムの改善も、ついでのようにやってしまう。技術系の学部を出たわけではなく、学校時代はけっこう遊んでいたようだが、とにかくメカが好きなのだ。

組織改革プロジェクトの中心メンバーに名を連ねる彼は、いつもIT兼プレゼン担当として全幅の信頼を他のメンバーから勝ち得ている。パワーポイントのスライドをつくっても、彼の作品はちょっと見る人を驚かせる。

彼は、あきらかに技術の力でキャリアを切り拓いている。

オフタイムは、子どもを連れてキャンピングカーで大自然の中に出かけていく。海外も、行ったことがない国がないくらい旅してきた。

地球を救っているとは思えないが、やはり何かがつながっている。

活躍している彼にも不安はあるし、悩みもある。

だが、行き詰まったとき、自分の中にある一貫したものを再認識すると、やるべきことは何か、答えが見えてくると彼はいう。

未来のヒントは過去にある。過去から現在まで流れている「つながり」を意識しなおそう。