プレゼンは一方的なものではない。もともとプレゼンは、相手の協力のもとに、ある目的を果たすためのコミュニケーションだと考えたほうがいい。

だれでも、自分の情報を聴き出そうとしてやってきた相手がいれば、その相手がどんな人間かを気にする。そして、なぜそういう情報を知りたいのかを知りたい。相手の考え方やスタンスに共感できる程度によって、自分の話すスタンスを決めようという心理が働く。

だからこそ、聴きだすためには自分自身のプレゼンが重要なのである。
これにはもうひとつ意味がある。
自分のプレゼンが、相手を触発したり、思考と発想の枠組みや新しい視点を提供する効果をもたらすことがあるという点だ。
相手が話せることというのは、相手が頭のなかで整理してストックしてあることだけではない。こちらの聴き出し方によって、自分でそのときまで思ってもみなかったこと、自分でも忘れていたり考えたこともなかったようなことを話してくれることがある。
新しい視点や整理の枠組みによって、自分のなかにある情報をひきだして整理してくれる人物を好む人は多い。
新たな自己発見は多くの場合よろこびである。それによって自分にたいする疑問が解消することもある。かりに、自分自身の矛盾を気づかされたとしても、それを追及するのではなく受け入れて前向きに整理してその後の解決策を親身に考えようというスタンスをこちらがもっていれば、話をすることに意味を感じてくれる人は少なくない。

いい聴き手になるためには、ある程度、自分のほうから自分自身のこと、自分がもっている情報を提供することも必要なのである。そして、もちろん話をしてくれる相手に積極的に耳を傾け、話の流れをとめずに引き出していく態度が、相手にさわやかな後味を残すことになる。

プロデュースは、自分の感情や直感、ひらめきを積極的に肯定して構想を進めていくものである。
自分を肯定し、自分がやりたいことを追求する。自分を生かしてできること、自分が納得できること、自分が楽しいと思い、喜びを感じられることをイメージする。それを自分だけでなく周囲にとっての価値に転換する方法を考える。
このことが重要なのである。
ロジカルに考えるのは望ましいし、人を説得するために役立つ参考データが豊富にあるのも、もちろん望ましい。
だが、それが思考のはじめにある必要はない。
自分を肯定し、感情や直感もプロデュースを進めるための思考の重要な一部と考え、まずは「自分本位に」構想を進めるというプロセスは、一見、独善的にみえるかもしれない。だが、それはプロデュースにとっては非常に重要なプロセスなのである。
プロデュースには、人を説得する際、なぜそれが有効なのか、必要なのかという点で論理的に説明しきれない点が残るものだ。
プロデュースは、何かをやりたい人間の情熱、気持ちの強さが、重要な説得材料となる。ビジョンの魅力や実現性、信用度もそこから生まれる。
もともと、本人の高いモチベーションがなければ構想自体が生まれない。
「自分の思いに従って自分ができるプロデュースをやり、自分の所属する会社やお客さまや社会に役立つように着地させていけばいい。だから、まずは一歩を踏み出そう」と考えるのが、プロデュース思考である。
自分の「個人的なこだわり」や「偏った部分」、精神的なトラウマが背景にあるような「屈折した部分」さえ、否定する必要はない。
自分を生かし、自分がエネルギーを燃やしてやりたいことを実現する方法を、自由に考えていけばいい。
だが、最後まで自分本位では、自分のやりたいことは実現しない。
他者の力を借りなくては、プロデュースは進まないのである。
誰の力を借りるのかを考え、プロジェクトへの参加、資金協力、情報提供など、協力の形態にあわせて相手を説得する方法を考えなくてはいけない。
また、プロデュースに参加する協力者一人ひとりの能力を尊重し、生かしきる方法を考えなくてはいけない。
プロデュースに最適な環境、道具だてを考えることも重要だ。
どんな場所を拠点にし、集まる部屋のつくりをどうすればやる気が出るか、どんなツールを使うと快適か、といったことである。
なぜなら、プロデュースに参加する人は、やはり、自分がそこに参加する意味、協力する意味を感じ、おもしろいと思い、何かの役に立つと思い、自分を最大限に生かせると思えるからこそ、エネルギーを注力し、すごい力を発揮するからだ。
チーム全体のモチベーションをつくりだすには、プロデュースに参加する人たちがどういう感情を持つかということに想像力を働かせることが非常に重要なのである。

プロデュースにはリスクがともなうように思われる。
それは、その通りである。
やってみなければどうなるか、はっきりわからない部分を残したままスタートするのがプロデュースであるから、リスクがあるのは当然なのだ。
できるだけリスクを冒したくないという観点から、集団で合意がとれるような確実で安心な方法を最優先で選択することが、結局ベストなのだと考える人は少なくないだろう。

しかし、何かをやってみようというアイディアがあるとき、あるいは、どうしても何かをやりたくてたまらないというエネルギーを持っている人がいるとき、それをやらぬままに済ました場合どうなるだろうか。

こんなことが起きたら素晴らしい。
こんなことをやってみたい。
どう考えてもおかしいことを、直してすっきりしたい。
誰かを、あっと驚かせたい。感動させたい。

はたして未来は現在よりも良くなるだろうか。これから起きる変化に対応しながら、現在の望ましい状況を維持できるだろうか。目指したいビジョンに近づいていけるだろうか。

こうした「何かをやらないままに済ませたときに生じるリスク」がどのくらい大きいかという観点が欠落したまま、プロデュースのリスクが強調されることは非常に多い。
その背景には、意思決定者の自分自身が獲得してきた立場や利権が、新しいプロデュースによって崩れかねないという不安があることもある。
また、新たな提案が現状否定につながり、上司や先輩の心証を損ねたり、意思決定者であるリーダーの意向に背くことになり、それが自分自身の立場をまずくするから、やめておく、という選択肢をとろうとする人間心理が働くこともある。

しかし、やらないこと、目先のリスクを冒さないことで、かえって大きなリスクを背負い込んでいくことは非常に多い。
変化が起きている時代には、いつも狭い枠のなかに居続けることには、かえって大きな危険がともなう。
いまは、情報はいくらでも集められる。
必要なときには、直接会いたい人にアポイントをとればいい。
必ず全員が会ってくれる、直接話を聞いてくれるとは限らないだろう。だが、どんな忙しい人でも、どんな世間的には偉くて有名な人でも、本当に自分が必要とするなら、意外に会ってくれるものである。
そういう行動を起こしてはじめて、情報をとる技術も、人に会って話を聞く技術も、自分のアイディアを表現する技術も、人に応援してもらう技術も、磨かれるのである。
はじめは、うまくいかないこともあるだろう。
だが、一つ経験するたびに自信が生まれる。
場数を踏むことは重要で、一回より十回、十回より二十回できれば、必ずその分、進化していく。
しかし、ゼロと「一」の間にある差は、本当に大きい。
だから、まず最初の一回をやってみることがとても重要なのである。

一見リスクを冒すように思われるプロデュースをやった場合に、かえってより大きなリスクを回避できる可能性は常にある。
「何もやらないで済ます場合のリスク」を示し、いっぽうでプロデュースのリスクを減らして成功に結びつけていく方法を示すことは、プロデュースを実現させるために非常に重要だ。
そうすることで、全員の合意をとってはじめることが不可能でも、多くの人の賛同を得てスタートできる可能性は、ぐっと高まる。

自分のテーマをもって生きるのは気持ちがいいことだ。
いまの社会は、ものすごい量の情報が飛び交っている。けれど、自分が追いかけたいテーマがあると、それが切り口になって、情報が取捨選択される。頭の中もスッキリ整理される。
自分のテーマについて、こんなことをやりたいのだと人に話す機会が多ければ、必ず、いい情報をくれる人が出てくる。人脈もできる。
そうして、知らず知らずのうちに、自分の世界が自分の周りに広がっていくのだ。
毎日、東京都心にある会社に通勤するTさんは、いつか田舎で暮らしながら都会の企業を相手に仕事をしたいと思っている。
彼はIT技術が得意だ。社内でも「ネットワーク分野についてはあいつに聞け」と言われる存在になっている。
しかし、ITは手段である。ITの専門家として仕事をしていきたいわけではない。どこに住んでいても、自分に仕事をくれる都会の企業に提供できる自分の価値は何かを、Tさんは考え続けてきた。同時に、自分が住むことになる田舎の町にも価値提供できる自分でありたいとも思う。
ウィークデーは忙しいサラリーマン生活をしながら、休日はワゴンに乗って日本中の風光明媚な田舎を楽しみながら回っている。しばしば、やり残した仕事を、朝日を見ながら海辺に停めたワゴンの中でしあげ、アウトプットを同僚たちに送ったりしている。
たくさんの田舎を自分の目で見て感じることがあった。
日本の田舎は沈滞している。観光地といわれるところも、街づくりの努力は中途半端で、やるべきことをやっていない。看板のかけ方もおかしいところが目についた。観光客にわかりにくい表示も非常に多い。逆にいえば、改善すればすぐによくなる点がたくさんある。
南東北の温泉地まで足を伸ばしたときのことだ。あるひなびた温泉宿の看板のつくり方が気に入らなくて、参考資料にしようと思ってその看板の写真を何枚も撮っていると、たまたま通りかかった宿の主人に呼びとめられた。
事情を話すと、宿に上がれといわれた。主人は、そうまでいうなら新しい看板のかけ方を提案してくれといった。Tさんは、そのまま三日間その宿に滞在し、温泉街の全体を見て回った。宿の主人が紹介してくれた別の宿の主人たちとも話をした。そして、一週間後に看板のラフスケッチと簡単な企画書をもって、ふたたびその温泉街まで出向いた。その温泉街が、観光客を迎えるために改善すべきと感じた点をまとめたレポートも持参した。
Tさんの提案を聞いて、看板を掛け替えようと、宿の主人はいった。Tさんは宿代をタダにしてもらったうえ三万円をもらった。しかも、そのレポートを読んだ宿の主人は、「今度、観光協会の役員会にでてくれないか」といった。
さらに宿の主人から、その気があるなら東京へ戻ったらこの人と会ってみてくれと、一枚の名刺を渡された。それは、大手旅行会社の営業企画部社員の名刺だった。
Tさんを見込んだその宿の主人は観光協会の役員で、温泉街の活性化を真剣に考えていた。
これも縁だな、とTさんは思った。
気がつけば、自分の目の前に思わぬ可能性が開けていた。

ビジョンは、迷った自分を救ってくれる。
どんな方向に向かって進めばいいのかという明確なメッセージが、ビジョンにはあるからだ。
ビジョンとは、「現場からは飛躍しているが実現を信じることができる魅力的な未来像」をいう。
ビジョンのゴールイメージは明確だが、そこに到るプロセスはファジーでかまわない。途中でどんな道をたどってゴールにたどりついてもいい。
明確なビジョンを描いている人は、回り道を楽しめる。一見、やりたいこととずれたことをやらなくてはいけなくなったとしても、何とかして、ビジョン実現のために現状を変えたり、むしろ現状を一工夫して生かしたりすることで自分にしか歩けない自分の道をつくってしまえるからだ。
だから、不安よりも夢が生まれる。苦労しても、目の前が開けていくから元気が出る。
環境工学を学んで、人と環境に優しい住宅の「窓」を開発したいと思って住宅建材メーカーに入ったのに、「きみは話が上手だし好感度が高いから」と販売推進部に配属されてしまった女性技術者がいた。
同期の技術系出身者たちは、ほとんど商品開発や設計の担当となったのに、なぜ自分は違うのか。
配属先が決まったとき、彼女はがっくりきてしまった。
だが、営業マンと一緒にユーザーを訪問したり、現場に行って施工業者の人たちと話すとき、彼女の住宅建築に関する専門知識や問題意識は相手を驚かせた。彼女は、自分の疑問点をお客さんにぶつけ、いろいろな提案をした。話は盛り上がったし、ベテラン営業マンでもなかなか引き出せないような生の情報を得ることができた。仕事は俄然おもしろくなった。
おそらく、最初から商品開発担当になっていたら、これほど現場とお客さんの実情を知ることはできなかっただろう。
現状をありがたいと思い、いまだからできる活動をやろうと、一生懸命に、そして楽しんで販売推進担当の仕事をした。いっぽうで、いつも、自分が商品開発を担当したらこうしよう、ああしようという意識をもち続けた。
人と環境にやさしい住宅の部品をたくさん開発して、よのなかの暮らしを素敵にすることが彼女のビジョンだったからだ。
そして、ついに声がかかった。
入社して二年、商品開発担当に異動せよという辞令が下りたのだ。
彼女は、商品開発担当として、つぎつぎと新しい商品を開発した。みんなが彼女の発想や開発・設計能力に注目した。
販売推進担当としての彼女の経験は、単に商品を設計するだけではなく、プロデュースする能力を彼女自身にもたらしていた。商品を世に送り出すためには、設計者の意図だけではなく、製造や営業、住宅建築の現場での施工のやりやすさも大事なのである。社内の仕組みもよくしていきたいという思いも生まれていた。
商品開発担当として、幾つかのヒット商品を若手ながら生みだした彼女は、そのあと、ユーザーと販売会社を結ぶ新しい情報チャネルをつくって、商品開発と販売の両方につなげるという新事業のプロデュースに関わった。それから、また商品開発担当になった。
彼女の七年間は、おもしろい物語に満ちている。
これからまた、どうなるかわからない。
とにかく彼女は、自分のビジョンにむかって進んでいる。
ビジョンがあれば、途中で道草しても、道草に意味が生まれる。途中で失敗しても、それは糧になるのであって、挫折ではない。ビジョンがあれば、戦略が生まれてくる。いまが、輝いてくる。
だから、「まだまだこの程度じゃ自分のビジョンに到達できない。もっとやるぞ」という緊張感や危機感は生まれたとしても、不安で元気がなくなることはない。
それが、周りから見ると、「あのひとはタフで頑張りのきく人だ」ということになる。しかし、本人にしてみれば、やりたいことをやろうとしているだけだったりするのである。