
日々忙しく目の前の仕事と格闘し、時が過ぎていく。
ふと、これでいいのかと疑問を感じても、立ち止まる余裕すらない。自分のやりたかったことをやっていない事実は明らかで、いまの仕事に積極的な意味を見いだすこともできない。しかし、仕事をやめることもできない。
忙し過ぎて家族ともまともにコミュニケーションできず、孤立していく。
組織や仕事自体におかしな点を感じても、それを指摘すらできず、いつのまにか自分の角がただ丸くなって、疲れて元気がなくなり、次第に思考停止に陥っていく。こういう状態になっている人は少なくない。
私は以前、こういう状態について「自分の感覚を失っている」と書いた。
何がおもしろいのか。何に違和感を感じるのか。本当は何をやりたいのか。忙しさの中でそうした感覚が少しずつ見えなくなっていく。そして気がつけば、目の前の仕事をこなすことが目的になってしまう。
最近は、それに加えてもうひとつ気になることがある。
私たちは忙しいだけではない。常に誰かの意見や情報に囲まれている。SNSを開けば成功事例が流れてくる。AIに質問すれば、それらしい答えが返ってくる。世の中のトレンドも次々と目に入る。
便利な時代になったと思う。
しかし、その一方で、本当に自分がやりたかったことを考える時間は減っているのではないだろうか。
気がつけば、他人の答えを探している。そして、それが自分の答えであるかのように思い込んでいる。
だからこそ、いま改めて自分の未来について考えることが重要なのだと思う。
自分は何をやりたいのか。なぜ、それをやりたいのか。どんな未来を実現したいのか。
そして、やりたいことのある自分を、「やっぱりどうしてもやりたいし、実現可能だから動きだそう」と、その気にさせるにはどうするか。
自分の説得
2008年の北京オリンピック男子マラソンで優勝したのは、日本育ちのケニア人選手サムエル・ワンジルだった。
オリンピック記録で優勝したワンジルは、42.195キロのマラソンを走っている間じゅう、トップでゴールすることだけを考えていたという。
彼が頭のなかでイメージしたのは、テープを切る瞬間のことだけではなかった。
ケニア人でオリンピックのマラソン金メダルは初となる。自分が優勝すれば、ケニアでは大変な騒ぎとなるだろう。自分は大統領とも会うことになるだろう。これを機に自分はマラソン一本に専念することになるだろう。
駅伝も走らなくてはいけない現在所属する実業団チームは辞めることになるだろう。
そして、自分は近いうち、メジャーなマラソン大会で2時間3分台の世界記録で走ることになるだろう。
そこまでイメージしていたという。
そして、トップでゴールするための自分の方法をしっかりとイメージしていた。
自分には世界のトップ選手とトラックで勝負できるスプリント力がない。勝つためには、ロングスパートでライバルたちを振り切っていくしかない。
そして、ロングスパートすれば、必ず苦しい時間がやってくる。
必要なのは、「我慢」だ。
「仕掛けるまでの我慢」と「スパートしたあとにやってくる苦しい状態に耐える我慢」。
これは、仙台育英高校の渡辺監督と、トヨタ自動車九州の森下監督に教わり、実践のなかで身体で覚えてきた。
こうして、ワンジルはレース中ずっと、ゴールするときのこと、ゴールしてからのことを考えながら、35キロ過ぎからロングスパートし、イメージ通り金メダルに輝いた。
ワンジルは、ビジョンを豊かに描いていた。
そして、ビジョン実現に向けて壁を突破するための戦略を持っていた。
「ロングスパートと我慢」という戦略は、ワンジルならでは、の戦略だった。
マラソンを走るサムエル・ワンジルの思考には、魅力的なビジョンがあり、自分自身を行動させるように説得できるロジックがあった。
こういえるだろう。
自分がワクワクしてくる未来のイメージを豊かに描き、それが現実になるための戦略をしっかりと持っていれば、人は誰でも自分の描いたプログラムに沿って行動できるようになる。
ワンジルは、いいコーチと巡り会い、自分の特性を生かしてビジョンを実現した。
「やる気」を生みだす論理的裏づけ
不確実な未来に向かってチャレンジするためには、「これがあるから実現可能なのだ」という自分を説得できるロジックが、やはりほしい。
やる気は、「出せ」と人にいわれても出るものではない。人がやる気になるには、やはり、理由が必要である。
これはおもしろい。まさに自分だからこそやるべきことだ、刺激的でワクワクしてくる、絶対にやる価値がある、途中でどんな苦しいことがあったとしても挑戦してみたい……。
自分自身が、そう思えるから「やる気」が生まれる。
もちろん、これをやらないと大変なことになるから何とかしないといけない、というように、危機感から「やる気」が生まれることもある。
いずれにせよ、やる気は、自分が本音でエネルギーを投入しようと自分なりに判断できる材料がなければ生まれない。仮に生まれたとしても、長続きはしない。
じつは、「やる気」というファジーなものの背景には、「だからやる気になれるのだ」と、自分がやる意味を確認でき、人に説明するときも、相手に納得してもらえる論理的裏づけが必要なのである。
「大義名分」と「波及効果」で人は納得する
人を説得できるロジックがあるかないか。
それは、ビジョンを実現するうえで非常に重要である。
「ロジックがある」とは、論理的に筋の通った、人が納得できる説明ができるということだ。
ビジョンを実現するためには、答えを出すべき七つの質問がある。
① ビジョンは何か(自分は何がやりたいのか)
② なぜ、そのビジョンなのか(なぜ、それをやりたいのか)
③ コアテーマは何か(突破口を開く鍵となるアイデアは何か)
④ 自分に何ができるのか(自分の果たす役割は何か)
⑤ 誰と実現するのか(誰にどんな役割を担ってもらうか)
⑥ 大義名分は何か(なぜ、このビジョンを実現する必要があるのか)
⑦ 付加価値は何か(どのような波及効果が生まれるか)
これら七つの質問は、
①と②で何を実現したいのかを動機づけし、③と④と⑤で、どうしてできるのか、戦略を示し、⑥と⑦で、やりたいことを実現する意義と実現後の波及効果を示す。
かからないエンジンのかけ方
自分には魅力的な構想やビジョンがある。しかし、実際に自分がそれを本気でやるつもりなのかと問われれば、まだ決心がついていなかったり、「それを始めたら、これができなくなる。それでもやるべきか」と迷っていたりすることはよくある。
ところが、自分のビジョンを人に話したとき、相手が真剣に耳を傾け、
「それは絶対にやるべきだ」
「私も手伝いたい」
と言ってくれ、相手のほうが自分以上に本気になることがある。
なぜ、そういうことが起きるのだろうか。
それは、そのビジョンに人の心を動かすだけの魅力があるからである。
自分が動き始めたら、一緒にやってほしいと思っていた人が感動してくれたり、自分以上に本気になったりする。その変化を目の当たりにしたらどうなるだろうか。
自分のなかにあった優柔不断さや迷いは、そうした出来事をきっかけに吹き飛ぶのではないだろうか。
そして、
「やはり、これはやるしかない」
と決意を固めることもある。
こうして、なかなかかからなかったエンジンがかかるのである。
魅力的なビジョンは人を動かす。
しかし、それだけではない。
魅力的なビジョンは、周囲を動かしながら、実は自分自身をも動かしていく。
ビジョンを心に持ちながらも迷っていた本人を、行動せずにはいられなくさせるのである。

