コンサルタントの事件簿

人はなぜ「囚われの思考」におちいるのか






世の中には、「最低限、人の迷惑にならないようにしなさい」という教えがある。
これはきわめて、基本的なモラルである。
親を大切に、家族を大切に、お世話になった人に義理を欠かさないように、というモラルもある。そして、決められた社会のルール、人と約束したことを守る人がまともな人だ、というモラルもある。
効率が良くなった組織や社会では、できあがったシステムを、お互いに乱さないようにすることがルールとなっていく。また、秩序を維持するという観点から、組織や社会のカルチャーを理解し、カルチャーに長年なじんできた人の教えに従う者が理想的な組織や社会の一員だという価値観も、当然生まれる。
みんながルールに従わなくなれば、大変な混乱が起きるのは、誰でもわかる。
しかし、できあがったシステム、カルチャーは、常に望ましいものとは限らない。
システム、カルチャーが、何かを阻害していると気づく人は必ずたくさんいる。しかし、既存のものを否定して、何か新しいことを起こそうとする人は、必ずモラルの壁にぶちあたるのである。
そこで、おかしいと思いながら自分を押さえていくことが、程度の差こそあれ、誰にでも起きる。「おかしいから変えましょう」と提言して、つぶされてしまう体験も、かなり多くの人が持っているだろう。
つぶされる理由が自分自身のほうにある場合もあるだろう。しかし、自分からあきらめたか、働きかけてみたが否定されて挫折したかは別として、「絶対におかしいから変えるべきだ」とか、「これをやったほうが絶対に会社や、お客さま、社会にとっていいはずだ」と思ったことが、うまくいかないことが何度か繰り返されると、人はだんだん考えようとしなくなる。
現実には、親の意向に背いたほうが、結果的には親を喜ばせることができるようになることもある。上司の意向に従わないほうが、会社を救うことになる場合もある。
しかし、指示命令に従わず、約束を破れば、モラルに反し、また誰かを悲しませる結果になる。それは罪だという思いが、「おかしいから変えるべきだ」という考えをストップさせてしまうということは誰にでも起きうる。
こうして、人は、「囚われの思考」におちいる。
実際は、仮に、一時的にはモラルに反する行動をとったとしても、結局は周囲の人々を救い、明るく元気に幸福にできる場合でも、「囚われの思考」はそれを許さないのである。





プロデュースは、こうした「囚われの思考」からの脱却を可能にする。
モラルに、ただ背くのではない。約束をただ反故にするのではない。
魅力あるビジョンを描いて、そこに至る道を示し、なぜそうすべきなのか、そうしないことによってどうなるのか、ビジョンが実現すれば、どんなことが起きるのか、これらを周囲にわかりやすく、戦略的に手順を踏んで説明し、プロデュースに対する支援態勢をつくっていくことで、世界は大きく変わっていく。
ときには、リスクを冒して、事実を先行させてしまうことが最善だという場合もないとはいえない。方法は、さまざまありうる。
プロデュースによって成果が生まれるというイメージを信じられるほど、人は「囚われの思考」から脱却でき、自由に発想できるようになる。
しかし、同時に、自分自身を信じられるか、自分がいいと思ってやったことの責任をとる覚悟ができるかということも考えなくてはいけない。
自由に発想できるだけでなく、自立し、自信を持ってことにあたれるだけの自分が必要になる。
表現力、説得力だけではない。自分に対する信頼感がどれだけあるかも問われる。
プロデュースの過程で、信頼感が想像されていくことは当然ありうるが、それまでの自分の信頼感につながる人脈や影響力、実績の「ストック」も、スタート時には大きくものをいう。
多くの人を動かし、多大な予算を投入してはじめるべきプロデュースになるほど、それが必要になる。
そういうことはあるものの、自分にできるプロデュースは必ず誰にもある。
一人でできない苦手領域は、それができる相手と組めばいい。自分が大きなプロデュースの中心的役割を負えない場合は、プロデューサー自体を連れてくればいい。
プロデュースは、いつでも可能なのである。
それがわかった瞬間に、「囚われの思考」から、人は逃れることができる。