自分の蝶を放て!

ビジョンは、ビジョンを語る人よりも偉い






ビジョンについて、よくある質問にこんなものがあります。





「ビジョンは、語る人にとってはいいけれど、聴く立場だと、語る人に従わなくてはいけなくなってしまいませんか?」





ビジョンを語ると、自然にリーダーシップを発揮できます。
しかし、ビジョンを聴くという逆の立場を考えたとき、誰かにビジョンを語ってもらうと、ビジョンを語るその人の、配下になってしまうのではないか、と心配する人がいます。





魅力的なビジョンには、影響力がありますから、ビジョンを語る人は、当然影響力があるわけです。
ですから、この心配も、自然なことと言えるでしょう。





しかし、ビジョンには、一つ、大変重要な特性があります。
それは、





ビジョンは、ビジョンを語る人よりも上位にある





という特性です。





ビジョンは誰かが語るものではあっても、語る人、ビジョンを発案した人を超越します。





ビジョンを語るとき、
その人とは別の第三者のため、
ある組織のため、
お客様のため、
仲間のため、
ある地域社会のため、
世の中のため、
私は、こういう望まれる状態をつくるという使命の一端を担いたい





というプレゼンになっているはずです。





影響力の大きなビジョンほど、そのビジョンを一人では実現できないわけですから、自然に「自分よりビジョンが偉い」というロジックのなかでプレゼンしていかないと、腑に落ちないプレゼンになってしまうんですね。





人を巻き込んで共感者をつくりだすビジョンは、明らかに、ビジョンの方が語る人より偉いのです。





だからこそ、魅力的なビジョンは、発案者が誰かにかかわらず、広がりやすいのだと言えます。





ビジョンは、かりに、語る人が一人で思いついたビジョンであっても、共感されて広まっていくにつれ、語る人一人のものではなくなります。
いつのまにか、みんなのビジョンになっているということが起きます。





そのとき、ビジョンを語る人は、ビジョンに対して小さな存在です。
だからこそ、ビジョンを語る人はリスペクトされるのだと私は思います。
要するに、大きなことを語っても、偉そうに見えないわけです。





ビジョンには、なんらか公共に資する要素がありますので、ビジョンが広がっていくほど、ビジョンの発案者は、表から消えていくことがしばしばあります。
そういうものですし、それで悪いことはないと私は思います。
ある程度、発案者が、表から消えていることは、大きな仕事になっている証しだと言えるでしょう。

発案者個人の存在が小さくなるからこそ、ビジョンが公共のものになっていくというのはビジョンの持つ素晴らしい特性でもあると私は思います。